藁埜村の歴史〜古河天斎〜
藁埜村の歴史は、その名前と不可分の関係にある
そう遺したのは、藁埜村出身の郷土史家・古河天斎(2018〜2110)である。
天斎翁は、藁埜村に生まれ、間もなくして他都に転居した為、幼少期のごくわずかの期間しかこの村で生活していない。
成人後、長沼屋書院で編集者として活動していた彼に転機が訪れたのは、32歳の時である。大災害によって長沼屋書院が壊滅し、活動の拠点を失った彼は、たまたま大災害の前日に帰郷していた藁埜村に、そのまま居を移し、終生を村で過ごすことになる。
天斎翁は、村の歴史を収集する活動を行う。彼がどのような思いで郷土史家の道を選んだのかは信頼できる史料に乏しく、確定的には何も語れないが、遺された遺稿の中には大災害を経験したこと、そこから郷里を反省的に見返すことになったことなどが語られており、一種のパラダイムシフトが起こったのだと推測される。
天斎翁は精力的に埋もれていた村の歴史を収拾し、古老と呼ばれるような人物にも根気強く聞き取りを行い、ほぼ口伝で伝承されてきた村の秘史や伝説、風習や因習などを詳らかにしていったのである。情熱、というよりも狂おしいまでの熱、郷土愛とでもいうべきものが彼にはあり、そういったものを彼の中に見いだし得たからこそ、従来秘伝とされてきた古史を古老たちも伝えたのであろう。
以下は、そんな経緯を以ってして詳らかになった藁埜村の歴史のごくごく一部を抜粋してお届けするものである。特に、冒頭に引用した藁埜村の名前の由来について詳しく述べている。
天斎翁の遺した史料は甚大かつ精緻であり、その全てをここに記すには紙面が足りない。
より正確な歴史をお知りになりたい方には、天斎翁の没後に出版された『わらのむら秘史』(長沼屋書院)をお勧めする。それでも満足できない方は、ぜひ一度、藁埜村郷土資料館にお越しいただきたく思う次第である。天斎翁の遺した膨大な遺稿と共に、彼が生涯を注いだ研究史料がよくまとめられている。
そして何より、彼の愛した藁埜村の美しい郷土が、あなたを迎えてくれるはずである。
文責:藁埜村郷土資料館館長・古河天弘
「藁埜村」という名前の由来
藁埜村と呼ばれる地は、はじめ山陰の小さな集落だった。
都から離れた僻地という土地柄から、各地からの流れ者が集まって出来た部落であったようである。この頃はまだ「藁埜村」という呼称は存在せず、名称があったか否かについても確定証言がない。
源平の時代となると、世が荒れて、山賊に身をやつした者などが村を襲うようになる。当時の村民はこれに甚く恐怖したようで、山賊対策のマニュアルのようなものが、古寺の記録に残っている。
治承・寿永の乱の末期、童女を連れた若武者が村に辿り着く。幾つかの証言や資料を総覧すると、この若武者は平家の紋を有していたようである。
村人は、山賊の件もあり、当初はこの若武者を大いに訝しんだが、幼い娘を連れていること、丁寧な態度と口調であることなど、およそ山賊とも思えぬ事から、貧しいながらもこの二人を介抱した。
若武者はこれを恩義と思い、かねてより村人の悩みのタネであった山賊を撃退した。山賊を壊滅させた若武者は、娘の養育を村人に託し、村を去っていったという。(異説では、固辞されて翻意し、村に残り村の防人となった説、一旦は村を去ったものの、数年後に戻りそのまま定住した説、村に残り、成長した娘と結ばれ、村を治めた説などがある。)。
近年、村の古寺の蔵から、この若武者の事を記した当時の書簡が発見され、この若武者こそ、義経の従者として北進を共にした武者の一人であり、義経自害の折、彼の娘が幼いながらも世を去らざるを得ぬことを哀しみ、その後事を託された者であるという。すなわちその幼女とは、義経の実子であるという。
その娘は、幼いながらも利発で「わらび」と名乗ったという。この名前は義経の妾である蕨姫とは年齢が合わない事から、「妾」と名乗ったのを名前と誤解した説や、そもそも偽名を名乗っていた説などがある。
ここから村の名前を「わらびの村」とし、その後「わらび村」「わらの村」と変化していったとされている(別説では「わらわの村」から「われらが村」「われら村」「われべ村」「われの村」「わらの村」と変化していったとも。)。
文責:郷土史家・古河天斎
雲龍伝説
藁埜村には、昔から伝説が伝わっている。これは、まだ藁埜村が藁埜村と名乗る前から、この山陰に伝わっていたものであるという。曰く、雲龍の伝説である。
文責: